イケメン男性

萩本欽一の若い頃がイケメンすぎる!デビューから現在の画像をまとめ

『視聴率100%男』という異名を持ちながらも、様々なフィールドで挑戦を続けているコメディアンで名司会者の萩本欽一さん。

そんな萩本欽一さんの若い頃から現在の画像を紹介していきます!

萩本欽一の若い頃がイケメンすぎる!

まずは、萩本欽一さんの若い頃のイケメン画像を紹介していきます!

1959年18歳:東洋劇場入団

父の会社が倒産したことがきっかけで、貧しい高校時代を過ごした萩本欽一さんは、毎日アルバイト生活を過ごしていました。

そんな生活から早く抜け出したく、映画で『面白い人が面白いことをしてお金をもらっている姿』を見たことがきっかけで、芸人を目指すように。

当初は浅草松竹芸場で稽古を積もうと思っていたそうなのですが、寸前で入門することを取りやめ、その足で同じ近隣の東洋興業に入団し、研究生としてコメディアンの卵になります。

今では考えられませんが、当時の萩本欽一さんは極度のあがり症だったということで、早朝に誰もいない劇場で大声を出す練習をするなどし克服していきます。

見事あがり症を克服した萩本欽一さんは、系列の浅草フランス座へ出向し、ストリップの幕間コントに出演した時、後の相方となる坂上二郎さんと出会うのでした。

1963年22歳:劇団浅草新喜劇を旗揚げ

その後、東洋興業を辞め、いくつかのコントグループを経て、浅草松竹芸場で『劇団浅草新喜劇』を旗揚げ。

同時期に、放送作家のはかま満緒氏に師事し、お笑い作りに本格的に取り組んでいましたが、後年コント55号のほとんどの台本を手掛けた岩城未知男氏と知り合います。

1966年25歳:ジンタカ・パンチ!のCMに出演

1966年25歳の頃には、はかま満緒氏の伝手で、TBSのプロデューサー・向井爽也氏や芸能マネージャーで現浅井企画の代表である浅井良二と知り合い、本格的にタレント活動を開始。

そして、向井氏の手掛ける公開コメディ番組『ジンタカ・パンチ!』のCMに起用されることになりました。

しかし、収録で19回ものNGを連発し、降板することに…

そのため、テレビ進出を諦め、生涯舞台役者で生きていくことを決意。

浅草新喜劇も解散し、熱海のつるやホテルの営業で再起を図ることに…

1966年25歳:コント55号結成

コント55号

熱海の営業で考案したコント『机』を売り込もうと帰京したところ、たまたま坂上二郎さんから電話がかかってきて会うことに。

その際、『机』のあらすじを語ったところで坂上二郎さんから、

そのコントは俺と欽ちゃんで演じた方がいいのではないか?

と提案されたことがきっかけとなり、一回の舞台契約だけで『コント55号』を結成することになったのです。

1968年27歳:『コント55号の世界は笑う』放送開始

萩本欽一

コンビ結成後、前田武彦さんと組んだフジテレビの公開生放送『お昼のゴールデンショー』で人気に火が付き、『コント55号』の名声は瞬く間に広がり、松竹演芸場や日劇に出演。

テレビ番組『大正テレビ寄席』に出演したことがきっかけで、全国的な知名度を獲得!

1968年7月から『コント55号の世界は笑う』が放送され人気を獲得することになりました。

1969年28歳:『コント55号!裏番組をぶっ飛ばせ!』放送開始

萩本欽一

人気に火をつけたコント55号は立て続けにレギュラー番組を受け持つことになり、1969年28歳の頃には、『コント55号!裏番組をぶっ飛ばせ!』が放送開始。

野球拳で大ブレイクしましたが、子供に見せたくない俗悪番組としてPTAや主婦からは投書なども多かったと言われています。

1971年30歳:『スター誕生』初代MCに就任

萩本欽一

そして、1971年30歳の頃には『スター誕生』の初代MCに抜擢され、単独での活動を開始。

以降は個々の活動がメインになっていき、『名司会者萩本欽一』が誕生していくのです。

これをきっかけに、1972年にはラジオ番組『欽ちゃんのドンといってみよう!!』が開始され、ヒット番組となったことで公開テレビ番組となりました。

1976年~1982年(35歳~41歳):欽ちゃん全盛期!

欽ちゃんファミリー

司会者といて活躍するようになった萩本欽一さんは、1976年から放送された『欽ちゃんのどこまでやるの!』が最高視聴率42%を記録!

1981年には『欽ドン!良い子悪い子普通の子』、1982年からは『欽ちゃんの週刊欽曜日』が始まり、どの番組も高視聴率を獲得!

この3つの番組の合計視聴率から『100%男』と異名を取り、これらの番組から人気芸能人が誕生し、『欽ちゃんファミリー』と言われました。

1979年38歳:『欽ちゃんの仮装大賞』放送開始

萩本欽一

萩本欽一さんにとって最も忙しい年となった1976年~1982年の間に、現在も放送されている人気番組『欽ちゃんの仮装大賞』のMCも担当。

そんな多忙な毎日を過ごしてきた萩本欽一さんだったのですが、1985年3月に充電と称して当時のレギュラー番組を全て降板し、半年間休養することに。

しかし、仮装大賞と24時間テレビだけは例年通り出演していたそうなのですが、2021年2月に放送された仮想大賞を最後に番組から退くことを示唆。

しかし、降板を撤回し、現在でも香取慎吾さんと一緒にMCとして出演しています。

萩本欽一 香取慎吾

その後、『オレたちひょうきん族』などアドリブ主導のテレビ番組が嫌になったことや、視聴率が下降気味であることを指摘されるようになり、表舞台から徐々に姿を消すように…

舞台公演や『欽ちゃん劇団』のプロデュース業に転向していきます。

1998年57歳:長野冬季オリンピック閉会式総合司会に抜擢

萩本欽一

1996年55歳の時には朝ドラ『ひまわり』のナレーターを担当し、1998年の57歳の頃には、長野冬季オリンピック閉会式の総合司会を担当。

この仕事が終了した後に母親から連絡が入り、とても喜んでいたというエピソードが残っています。

というのも母親はコメディアンのことを『笑われるから恥ずかしい仕事』と思っており、コメディアンとして活躍する萩本欽一さんを認めていなかったとのこと。

しかし、長野五輪に出演している息子を見て初めて息子の仕事を認めてくれたそうです。

後の萩本欽一さんは、

親孝行ができたたった一つの仕事だった

と振り返っています。

2005年64歳:茨木ゴールデンゴールズを結成

萩本欽一

高校時代、野球部だったほど野球が好きだった萩本欽一さんは2005年64歳の頃、自ら野球チームを結成し、初代監督に。

当初のチームメンバーは、萩本欽一さんの独自のマイクパフォーマンスや、女子選手・元プロ野球選手・お笑い芸人など前例のないチーム作りを推進。

そして、アマチュア野球随一の人気チームへと成長させていきます。

2006年には、チームメンバーとして所属していた山本圭一さんの淫行事件が発覚し、一度はチームの解散を決めましたが、地元市民による存続署名活動や、各メディアのアンケートなどで存続要望が多かったことから解散を撤回。

2012年12月には監督を勇退し、後任に片岡安祐美さんを指名。

現在でも活動を続けています。

2015年74歳:駒澤大学仏教学部に入学

萩本欽一

これまで名司会者、座長などで活躍してきた萩本欽一さんでしたが、年々体力の限界を感じ始め、2014年3月の公演を最後に大劇場での公演から引退する方針を表明。

その一方で、認知症対策のため受験勉強を開始し、2015年74歳の頃に『駒澤大学仏教学部』に入学。

しかし、2019年に自主退学しています。

合格できただけでもすごい功績ですよね!

萩本欽一の現在は?

萩本欽一

色んなことに挑戦し続けてきた萩本欽一さんは、現在82歳!

82歳にしてもいまだ尚、いろんなことに挑戦し続けているのです!

近年、テレビ離れが著しくなってきた2021年9月からは何とYouTuberとして活躍!

自身のチャンネル『欽ちゃん80歳の挑戦!』を開設し、2022年1月からは平日の配信企画『帯欽』も開始するなど、現在はテレビではなくYouTuberとして活動しているようです!

さらに、2023年9月には『欽ちゃん82歳の挑戦~ちょっとだけ動くライブ~』と題し、収容人数100人ほどの小劇場の舞台に立ちました。

萩本欽一

舞台では笑顔でギャルピースをしながら、欽ちゃん走りを披露する場面も見られるなど、82歳とは思えないパワフルな姿を見せてくれています。

現在もなお色んなことに挑戦し続けている萩本欽一さんが、今後どんな挑戦をしてくれるのか楽しみですね!