イケメン男性

菅原文太の現在は?若い頃からの容姿の変化を画像で振り返り

ヤクザ映画や大河ドラマ、アクションと幅広い演技とその整った容姿で一躍人気を博した俳優の菅原文太さん。

今回は、そんな菅原文太さんの死因や若い頃の容姿を時系列で紹介していきます!

菅原文太の死因は「転移性肝がんによる肝不全

2014年11月28日午前3時、
菅原文太さんは転移性肝がんによる肝不全のため81歳でこの世を去りました。

定期健診で病院へ行ったところそのまま入院となり、そこで高倉健さんの死去を知り、後を追うかのように息を引き取ったそうです。

渋い語り口と温かみある演技で愛され、任きょう映画などでいぶし銀の存在感を発揮した菅原文太さん。

2007年には膀胱癌を患い、主治医から膀胱の全摘手術を勧められたものの、

『若い頃に不摂生してたから、余命1年半と言われたことは覚悟できた。でも、人工膀胱を付けるのは…』

と悩み、結果的に抗ガン剤と放射線、陽子線治療の道を選びました。

2009年からは山梨県韮崎市で農業をスタートさせ、2012年11月に俳優業引退を宣言。

引退宣言以降もラジオでレギュラー番組『菅原文太 日本人の底力』のパーソナリティ、テレビドキュメンタリーのナレーターやCM出演などは務めており、

2012年7月公開のアニメ映画『おおかみこどもの雨と雪』にも声優として出演し、結果的にこれが菅原文太さんの遺作となったのです。

葬儀は11月30日に福岡県太宰府市の太宰府天満宮祖霊殿で、家族葬を行ったそうです。

これまでさまざま作品に出演し、映画「トラック野郎」「仁義なき戦い」シリーズなど多くのヒット作を生み出してきた菅原文太さん。

たくさん活躍してきた分、ゆっくりと休んでほしいですね。

菅原文太の若い頃がイケメンすぎ

菅原文太さんの若い頃が”イケメン”ということで、デビューからの容姿を当時の写真と共に振り返って行きたいと思います。

1956年23歳:映画『哀愁の街に霧が降る』でデビュー!

1954年に旗揚げしたばかりの劇団四季に1期生として入団し、初期の作品に端役として多数出演した菅原文太さん。

1956年には東宝の映画『哀愁の街に霧が降る』でデビューを果たし、

1957年に岡田眞澄・旗昭二・池田二郎ら総勢8名で、日本初の男性専門モデルクラブ・SOSモデルエージェンシーを設立し、雑誌やショーのモデルをしていました!

当時のカタログに掲載されている菅原文太さんの貴重なプロフィールがこちら↓

身長187センチという長身に加え、このスラっとした足の長さ…

顔も小さくかなりスタイルがいいですし、何より顔がイケメンすぎます!

その後1958年に喫茶店で新東宝の宣伝部員にスカウトされ、映画俳優になる決心するとそのまま『白線秘密地帯』で本格映画出演を果たしました。

こちらの写真は当時25歳の菅原文太さんなのですが、キリッとした表情がまた最高にカッコいいですよね♩

この頃の菅原文太さんは長身の新人二枚目スターの一団「ハンサムタワーズ」の一人として様々な作品に出演していたのですが、

当時の新東宝は経営不振で低予算映画が主力路線だったために、世間的な知名度はそれほど高くなかったと言われています。

1959年26歳:映画『海女の化物屋敷』で初主演

1959年26歳の時には、映画『海女の化物屋敷』で初主演を務めました。

本作は葭原幸造の原案から杉本彰・赤司直が脚本を書き、「暴力娘」の曲谷守平が監督した海女ものスリラーで、菅原文太さんの引き締まった体も見どころとなっています。

しかし、ブレイクまでは程遠く、その後はメロドラマやホームドラマなど、女優主体の企画が多い松竹では脇役に甘んじる状態が続きました。

1969年36歳:映画『現代やくざ 与太者の掟』

1969年36歳の時には、
東映に移籍して初めての主演映画『現代やくざ 与太者の掟』に出演しました。

渋みが増し、30代ならではのかっこよさがありますね!

「現代やくざシリーズ」は1972年まで続く作品群で、ヤクザを美化した従来の任侠映画ではなく現実的な「ワル」を主人公にしたものであり、後の実録映画の先駆けとなりました。

1973年40歳:『仁義なき戦い』シリーズ

1973年40歳の時には、映画史に残る作品にもなった『仁義なき戦い』シリーズで東映を代表するスターのひとりになりました。

本作は第二次世界大戦後の広島県で発生した「広島抗争」の当事者の一人である、美能幸三美能組組長の獄中手記に飯干が解説を加えたノンフィクション作品です。

菅原文太さんはシリーズを通しての主演を見事演じ切りました!

存在感もあり、迫力がすごいですよね…!

この作品をきっかけに菅原文太さんの存在を知った方は多いのではないでしょうか。

また、1974年末からスタートした『新仁義なき戦い』シリーズや1975年に始まる『トラック野郎』シリーズ(一番星・星桃次郎 役)でもヒットを記録しています。

菅原文太さんといえば『仁義なく戦い』『トラック野郎』というイメージが強いですよね♩

それほど世間に深く印象付ける作品でした。

1986年53歳:ドラマ『法医学教室の長い一日』

1986年53歳の時には、ある事件を科学的に証明しようと奮闘する法医学者の1日を描いたドラマ『法医学教室の長い一日』にて主演を務めました。

ヤクザのイメージが強い菅原文太さんですが、知的な法医学者も役もピッタリですね♩

1998年65歳:大河ドラマ『徳川慶喜』

1998年65歳の時には、菅原文太さんにとって大河ドラマ3作目となる『徳川慶喜』にて、慶喜の父親である「徳川斉昭」役を務めました。

威厳があり、写真越しでも迫力が伝わってきますね!

2003年70歳:映画『わたしのグランパ』

最後にご紹介するのは、菅原文太さんの最後の主演作『わたしのグランパ』です。

本作はかつて殺人を犯した祖父と心を通わせた孫娘の成長を描いた作品で、菅原文太さんはアクション・シーンにも挑み祖父役を熱演しました。

撮影は主に栃木県足利市で行われたそうで、第27回モントリオール世界映画祭に出品、最優秀アジア映画賞を受賞を記録しています!

70歳にしてアクションシーン…本当にパワフルですよね。

いくつになっても男らしく、体が弱っていたと感じさせないあたりがプロだということを改めて実感させられます。